第24回 『必死』
2010年3月 1日 10:10 | コメント(14)

昭和59年4月。
母と私、犬のティシュの二人三脚+一匹の新しい生活が始まりました。
母は、昼間は岡崎に車を走らせ、長年ご贔屓(ひいき)頂いてきたお客様のお宅へ呉服の行商の仕事、夕方には名古屋に戻り、着物に着替え、美容室で髪を結ってもらい、"さわさん"に変身して夜の街に出勤。
母が帰ってくるのは、いつも真夜中でした。
それでも母は私と会える朝のわずかな時間を大切に考えてくれ、せめて朝ごはんだけは一緒にと、朝は私より早く起きて、普通の母親と同じように食事を作り、私の話を聞いてくれました。ですから私は、この生活を寂しいと感じた事などありません。
母は、ホステスの仕事の細かい話は一切しませんでしたが、一日のスケジュールを考えれば、母が一生懸命頑張ってくれているのは、娘の私に痛いほど伝わってきたものです。
多くを語らずとも、親の背中というのは、子に、さまざまな教えを、見せてくれるものです。
当時の母の背中には、『必死』という文字が書いてありました。
必死で頑張った先には、必ず良い人生が待っている!そう語っていた母の背中でした。
叔母の"ヨッちゃん"には、随分助けて頂きました。
とにかく1円でも多く稼ぐ為に働き通しの母に代って、夜ごはんは、ヨッちゃんが支度をしてくれました。
母はヨッちゃんに、毎月、私と母の二人分の食費を払い、夕飯は別々にヨッちゃんの家に行き、ご飯を食べる。
母はその後、夜の仕事へ、私はそのまま、ヨッちゃんの息子の家庭教師をする毎日でした。
家庭教師のアルバイト代は、祖母(母の母)が出してくれました。
祖母は、私を不憫(ふびん)に思ったのでしょう・・・。
私にお小遣いを与えたい・・・、でも一人の孫にだけ特別にお小遣いをやるのは、他の孫たちの手前出来ない。それに、働かずしてお金を手にしたら、私はお金の有難みが分からない大人になってしまうだろう・・・。
そこで祖母は、私に従弟の家庭教師のアルバイトをするように、手を差し伸べてくれたのです。
『お金は、働かなくては誰もくれない』祖母は私に教えたかったのだと思います。
名古屋の街は、私にとって、見る物全てが都会で、新鮮でした...。
今思うと、ウブだったなぁ~と思うのは、名古屋で暮らし始めたばかりの頃、私は賑やかな地下街の真ん中を、堂々と歩けなかった事です。
田舎から出てきた引け目があって、名古屋駅や栄の地下街を歩くときは、通路の一番隅っこを、隠れるように歩いていました。
「田舎モンだとバレたら恥ずかしい・・・」そんな事を思っていたのです。
ただ、こんな風にも思っていたのを覚えています。
「いつかきっと、私は、この地下街を堂々と歩いているはず。1年後、10年後、自分がどんな風になっているのか楽しみ・・・」
これは、完璧に母に刷り(すり)込まれた影響です。
母は、何か落ち込むような事があった時には、必ずこう言うんです。
『1年後、10年後、自分がどんな風になっているのか楽しみ』
落ち込んで暗く沈む状況で、必ず目を輝かせて言うのです。
『1年後、10年後、自分がどんな風になっているのか楽しみ。
頑張るのは、誰の為でも無い、全~部、自分の為なのだから。
必死になって頑張っていれば、神様はきっと、その姿を見ていてくださるはず。
いつか必ず報われる時は来る。その時、この悔し涙は、笑い涙に変わるから...』
こんな母親に育てられて来た娘なので、私も、知らず知らずのうちに、今は悲しくても、1年後はきっと笑い話になっているから大丈夫!と、何の根拠も無いのに、何でもかんでも前向きに考えるようになってしまったのです。
それが面白いもので、どんな事でも、みんな本当に笑い話になってしまって来たから、人生は何一つ、諦める事など無いと思えます。
それが証拠に、今こうして過去の悲惨な人生を笑って書いているのですから。アハハハ・・・。
『諦めなければ、終わりは来ない。終わりが来るのは、自分が諦めた時』
諦めない!諦めない!だって、先に、1つも良い事が無い保証など、どこにも無いのですから・・・(笑)。
さて、私も学校にアルバイトに、新しい生活に慣れ、母は母で充実した毎日を過ごしていたと思い込んでいたその時、その事件は起きたのでした...。
いつものように、朝、私は学校へ。ところがその日は遅刻しそうで、母が車で学校に送ってくれる事になったのです。
「お母さん!早く!遅刻しちゃうよ!」
新緑に太陽の光が反射して、キラキラと輝く6月の爽やかな朝でした...。
私はアパートの螺旋階段を、駆け足で降りて行きました。
後ろから、母も階段を降りかけた、その時です!
「ああああああああっっっっ!!!」
母は叫び声と共に、頭から真っ逆さまに転落したのです!
狭い螺旋階段に、頭を何度も何度も打ち付けながら転がり落ち、一瞬の出来事でした。
私はどうする事も出来ず、駆け寄った時には、グッタリとした母が、頭から血を流していました!
「お母さん!大丈夫!しっかりして!」
すぐに、ヨッちゃんを呼びに行き、母を病院に運びました。
幸い検査の結果、脳には異常は無くホッとしたものの、身体じゅう鞭打ちとアザだらけの母。治療後、医師からしばらく自宅で安静にするようにと言われました。
私はこの時、母が、ただ足を滑らせただけの事だと思っていました。
しかし、それが違っていたと知ったのは、これを書くようになった最近の事です。
母は、寝ずに働きづめで、その上、私に言えないある精神的疲労で、身も心も疲労困憊(ひろうこんぱい)状態で、目眩を(めまい)を起こしたのです・・・。
そうとも知らず私は、「もう!お母さんのせいで、結局、学校遅刻しちゃったじゃない!本当にオッチョコチョイなんだから~。」と言ってしまったものです。
母は痛がりながらも、夕方になると、出勤する支度を始めたのです。
「今日はダメ!先生が安静にしてるように言ってたでしょ!」そう言う私に、「これくらいの怪我で休んでどうするの!大丈夫、大丈夫。それじゃあ行ってくるからね」
私はまだまだ子供で、母がこの時、なぜそこまで頑張るのか、分かりませんでした。
この時、母の心の中には、1日でも早く、このアパートではない、もっと家庭らしい住まいで私を暮らさせてやりたい・・・。その思いがあったのです。
その事故から数日・・・。
家で、長い髪をといていた母が驚いたように「わっっ!」と声を上げました。
見ると、頭の右側に大きなハゲが!
頭を打ったところの細胞が一時的に死んで、毛がゴッソリ抜けてしまっていたのです。
さぞや母がショックを受けるかと思いきや、
「ああ~良かったぁ~。母さん、ツイテルわ!だって、ここなら、髪を結えばハゲは隠れるでしょ!問題無い。問題無い」
頭がハゲたのにツイテルなんて、どういう人でしょう・・・。
と言うのは、母にとってハゲなんて、何の問題も無く、それより母の心の奥底には、私の知らない、本当の問題が影を落とし、母は一人、それと戦っていたからでした。これが、私の知らない精神的疲労の原因です。
その母の戦いとは...。
【写真】この話の頃の私。このアパートで写した、唯一たった一枚の写真です。
奇跡の復活 2010年3月 1日 13:50
頑張るのはいいことですが、頑張り過ぎるのは、よくありません。しかし、頑張りを苦にしないところが、ポジティブで尊敬します。人生は、自分で基準を決めればいいんですよね。