神野三枝 タレント
~お知らせ~ 「何度も何度も読みました。そして胸が苦しくなり、涙が止まりませんでした」「私にとって人生の教科書」・・・08年3月から3年にわたり連載、多くの反響を呼んだ神野三枝さんのコラム『礼状』に、新たに書き下ろしの文章を加えた自叙伝『母への礼状』が発売されました。 お問い合わせは風媒社(052-331-0008)まで。 http://www.fubaisha.com/

第22回 『桜』

20100104jinno_01.jpg  引っ越しの日。

 これから名古屋で暮らすアパートは、一間の小さな小さなアパートです。
 そこに持っていく家財道具は、本当に少し。
 あっという間に、荷物はトラックに積まれ、そのトラックを先導して、母の運転する車が出発していきました。

 手を振って見送る私。

 私は、家に残ったのです。
 短大の入学式までには、まだ少しだけ日にちがあり、ギリギリまで、この家に残っていたかったのです。
 その時の心境は...、

 私がこの家を出たら、それが私たち家族の終わりの時。
 家族の痕跡が、すべて消えてしまう時...。

 未練と言うのでしょうか、本当は譲りたくないのに、譲らねばならない、最後の足掻き(あがき)、そんな気持ちでした。

 一人、先にアパートへ引っ越した母は、荷物を整理し、母子(ははこ)二人の生活が始められる準備をし、夜はクラブに出勤して「さわさん」となり、昼間は転居に携わる諸々の手続きに追われる日々でした。

 それから、数日...。

 私は何もない家の中で、ティシューと二人きりで過ごしました。
 電気もない、ガスもない、電話もない、そんな中で、どうやって生きていたのか、記憶がありません。
 不思議なのですが、そこから最終的に私が家を出た時までの記憶が、丸ごと消えてしまっているのです。
 どんなに頭を捻っても、思い出せないのです。
 不思議です。
 他の事はすべて鮮明に覚えているのに、なぜこの期間の記憶だけが消えてしまっているのか...。

 人は、辛い事、悲しい事、一大事な事、自分に受け止められるだけの容量というのを持っていると思うのです。
 しかし、その容量では足りないほどの、大きな衝撃を心が受けると、思い出すたびに、また同じように傷つくのでは?と恐怖に思い、だったら、思い出さない方がいい、という防衛本能が働き、記憶を蘇(よみがえ)らせないのでしょうか。

 まるで、引っ越しのたびに、毎回中を開けずに、段ボールのまま移動する荷物のようです。
 その荷物はいつでも押し入れの奥にあり、いつかは整理をしなくてはいけないと思いつつも、手間がかかる面倒を考えて、見て見ないふりをしてしまう。
 仮に、思い切って、開封をしたとしても、中から忘れたいと思っていた嫌な思い出までが蘇り(よみがえり)、再び苦む、なんて事になったらどうしよう...。そんな恐怖を考えたら、いっその事、段ボールに仕舞い込んだままにしておいたほうがいい...。
 この例えに近いのではないかと思うのです。

 だから、私の脳から、あの時間の記憶が無くなったわけではなく、脳の中の段ボールに仕舞われてしまっているのだと思います。
 強烈で苦しい体験の記憶は、その苦しみから自分を守ろうと、体験自体を瞬間冷凍してしまい、その時の感情や記憶を、すべて一緒に凍らせてしまうような気がします。

 いったい、記憶にない期間は、どのくらいの日々だったのでしょう...。

 次に私の記憶の残っている映像は、私が家をあとにした時の記憶です。

 私は、母の運転する車の助手席に乗っていました。

 バタンッ!

 母が運転席のドアを閉め、エンジンを掛けました。

 ブルンルンルン~

 「さぁ!出発進行~!」
 母は、私が落ち込まないように、明るく振舞っていました。

 私は、もう二度とこの家へは戻って来ない、と思うと悲しくなるので、「ありがとね。ありがとね。今まで一杯ありがとね」と言って、家を振り返って見る事をせずに、前を向いたまま、頭の上で手だけを振り、背中で家とさよならをしました。

 振り返ったら、きっと泣いてしまう...。それが分かっていたからです。

 車の窓から見える、生まれ育った町の、見慣れた景色。
 友達の家、通った学校、お城、馴染みのある光景が、車窓というスクリーンの中で流れて行きます。  咲き始めたばかりの桜の花が、私と母を見送ってくれました。

 桜...。私にとって桜の花は、特別な思いがあります。

20100104jinno_02.jpg  家の前には、岡崎城から続く伊賀川が流れ、川のほとりには、桜並木が続き、春になると、毎年、淡紅色の桜が満開でした。
 私は、桜の町に生まれ、桜の中で育ちました。
 入学と卒業を繰り返す私に、その都度、桜吹雪が拍手喝采をくれました。
 祖母が亡くなった時に、その亡骸を天に運ばんとばかりに、空高く風に舞っていた桜の花びら...。
 そして今、この街を出て行く私を見送ってくれている桜、桜、桜...。

 今でも、毎年、桜の花を見るたびに、この日の事を思い出します。

 さて、車を走らせて、一時間。
 広い道路に、賑やかな都会。
 知らない街並みが私を出迎えてくれました。
 そして、細い路地に入ると、母は車を止めて言いました。

 「さぁ!到着~!ここが、新しい私たちの家です!」

 1階が雀荘の、3階建ての小じんまりした建物でした。
 エレベータが無いのでしょう。
 外には、歩けばカンカンカン~!と間違えなく音が響くであろう鉄板の螺旋(らせん)階段がありました。
 木造モルタル造り、各階の廊下が外から丸見えの、昭和のドラマに出てきそうなアパートを想像していただいて、間違いありません。

 なぜ、母はこのアパートに決めたのか?
 理由は簡単です。ここしか、入れてもらえなかったからです。
 当時、昭和59年。この時代は、まだ母子家庭にとって、世間の目は冷たく、しかも、母はまだ父と、戸籍上、離婚したわけではない状態だったので、父親がいるのに、母親と娘だけが暮らすアパートを探す事自体、訳有り者と、敬遠されたのです。
 なかなか住まいが見つからなかった母を気遣って、母の妹、私にとって叔母に当たる『ヨッちゃん』が、自分の家の裏にある、このアパートの大家さんに頼んでくれたのです。
 大家さんも、訳有りの母子家庭で、こちらの事情を思いやってくださり、入居をさせてくださったのです。

 その時、母が、ヨッちゃんに対して、申し訳ない気持ちでいた事を私は知っています。

 ヨッちゃんは、とても立派な家に嫁ぎ、その辺りでは、有名な奥様だったのです。
 その奥様の実の姉さんが、商売を畳んで、夫と別れ、娘と二人で、裏のアパートに引っ越して来たなんて、世間体が悪過ぎて、ヨッちゃんに、肩身の狭い思いをさせてしまうに違いない...。それが、母の申し訳ない気持ちでした。
 しかし、ヨッちゃんは、自分だったら、とても乗り越える事ができなかった事を、女手1つでした母の事を自慢だ、とまで言って、力になってくれたのです。
 いい叔母でした。余談ですが、ヨッちゃんは、それから数年後、癌に侵され、44歳の若さで亡くなりました。良い人は早く旅立つって、本当ですね...。

 当時、母の両親はと言えば、二人で暮らすには大きすぎる家に住んでいました。
 普通なら、すべてを失った私たち母子は、その実家に入るというのが、妥当なところなのでしょうが、母は、当時42歳、「42にもなって、親に泣きつくなんて、みっともない事は死んでもしてはいけない」と自活の道を選んだのです。
 そんな母を、今、私は、偉かったな~という思いと、もっと私が大人で、知恵があったら、上手に祖父母にお願いして、母の実家に入っていても良かったのにな~、と悪知恵も頭を掠め(かすめ)ます。  なぜなら、祖父母の家は、のちに、売りに出した時、中日ドラゴンズの監督さんが買いたいと、見にいらした事もある程、まあまあの家だったのです。
 あぁ~あ、あの時、おじいちゃん家(ち)に入り込んで、ゆくゆくは私たちの物にしていたら、苦労はそうとう減っていただろうに...。と、今になって、私は密かに思ったりするのです。。。(笑)

 この、母の真っ正直で、潔い(いさぎよい)生き方が良いのか、それとも、もう少し人を頼って、楽できる生き方を選択する方が賢いのか?どちらが正しい答えなのかは分かりません。

 でも、こうして、真っ直ぐな母にセットで、もれなく私の新しい人生も、雀荘の上のモルタルアパートへと、引っ越したのです...。

【写真上】家の前の桜並木
【写真下】小学校入学 桜の前で
神野三枝 プロフィール
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コメント

ボルパピ: 2010年1月 4日 11:29

毎回、涙無くしては読めない内容ですね・・

神野さんが生まれ育った町、家を去らなければならなかった気持ち、とても解ります。
でも・・・
今回は、お母様の希望に満ち溢れた気持ちにとても共感が持てます。
なぜなら今まさに私自身も、お母様と同じ新しいスタートラインに立ったところだからです。
グズグズしてても何も始まらない!
ただ、親の都合に振り回される子供の事を思うと、胸が痛みます。
それはきっと、神野さんのお母様も同じだと思いますよ

いてまえ: 2010年1月 4日 12:13

初め、何で桜??とも思えたんですが、神野さんには桜並木に思い入れがあるのですね・・・。あの桜並木を見ると、神野さんも清々しい思いをしておられるのでしょうね・・・。

奇跡の復活: 2010年1月 4日 23:01

人間の記憶は、案外曖昧にできているようです。少し状況は違いますが、私も、深い辛さにぶつかったり、落ち込みに嵌ったりすると、記憶を失うほどに泣いたりしてしまうそうです。大人になってからの話。医学的にも言われているようですが、防御性能のようなものみたいですね。無理に思い出したりせず、そんな過去があったと、今後の人生の糧として、考えていけば良いみたいです。

季節はずれのサンタクロース: 2010年1月 5日 00:29

ダンボールに仕舞い込んだ瞬間冷凍した記憶は、私の知っている三枝さんなら、もう解凍しても大丈夫だと思います。  逆に力が湧いてくる様な気もします。  十数年前、親父のヤンチャでその町に住めなくなり、移り住んだのは、ひと山越えた町の倉庫でした。同じく、そこしか借りれませんでした。今思えば、その境遇だったから頑張れたのかとも思えます。ピッチャーが癖になるからと敬遠を嫌がるそれに似ています。ですから、お母様の選択、過去オール肯定からしても、間違いじゃないはずです。  放送を聴いていて、宮地さんの「山崎川」に特異な感情を感じていましたが、それは、間違いではなかったんですね・・・

おぐらとーすと: 2010年1月 5日 14:40

毎回,神野さんの壮絶な体験を読ませていただくたび,こういう経験が強さを作っていくんだなと思います。
叔母様もすばらしい。お母様もそう,すばらしいご姉妹で感動します。
人間,悪いことよりも,嬉しかったこと,良かったことの方を覚えているものだと思います。きっと,その方がその先の人生に明るさをもたらしてくれるからでしょうね。
悲しい記憶は海馬の底の底へしまっておけばいいでしょう。

バンバン爺: 2010年1月 5日 16:02

厭な記憶を封鎖してしまう脳の仕組みは確かに有りますよ。私も自分史らしきものを書いてみたのですが、子供の頃の楽しい出来事は詳細に思い出すのに、空襲で焼け出され逃げ回った時から半年位の動向は本来強烈な体験の筈なのに殆ど思い出せませんでした。おそらく思い出したくない出来事を脳は封印してるというより除去してしまったと思っています。それにしても三枝さんの文章力素晴らしいですね。

エルコンドル: 2010年1月 5日 17:50

あけまして おめでとうぎざいます 毎回楽しみです
私にも 空けられないダンボールがあります
だれでも 荷物があります どう乗り越えるかでね
考えさせられます でも 良い友だちでうらやましいです

三好のてるくん: 2010年1月 6日 05:08

3回読み返しました
やっぱり、三枝ちゃんのお母さんは凄いです
何事も、やれば出来ると、また勇気を頂きました
それにしても、人間の記憶って不思議ですね
この先、フラッシュバックする時が、あるのでしょうか

蛍: 2010年1月 6日 13:58

みえちゃんのファンなのでオピリ~ナ~を拝読せねばと思いつつの私です。
本日に、お気に入りという所に、登録させて戴きます。
おかあさんのような事を真似できないです。
素晴らしいおかあさんは、みえちゃんの宝物ですよね。
おとうさんの思い出にも宝物あるのですね。

家との別れを背中でされた辛さっていかばかりでしょう。
蓋の開けれられないダンボ~ル箱の存在もせつないです。

みえちゃんは、桜並木のような素敵な思いやりおありです。
みえちゃんのおばさんよっちゃん様にも拍手♪ 拍手♪ 拍手♪

バードちゃん: 2010年1月 7日 16:33

毎回拝読させて頂くのを楽しみにしています。
私は、お母様の切り替えの早さが好きです、同じ状況におかれても、スマートに難題をクリアーして行かれるのには、胸がすく思いです。ウジウジ悩んだり、誰かを恨んだりしていたら幸せにはなれないし、自分が惨めになるだけですものね。明るく今を生きる!これに尽きます。

赤い皇帝: 2010年1月 8日 14:28

お母さんの前向きな気持ち。神野さんの思い出せない(防御反応の部分)過去両方とも納得しました。宮地さんの「スタートラインは何度でも引ける」という言葉が僕は大好きです。助けてくれる人が周りにいる。だから苦難を乗り越えていけるんだと感じました。

けいちゃん: 2010年1月12日 22:32

私も実は今、人生のお引越し次期を迎え葛藤している所です。潔く自分の力で頑張るか、助けてくれる人(男ではありません。念の為)の気持ちに有難く甘えるか、いずれにしても私だけでなく子ども達の立場で真剣に考えています。三枝ちゃんの文章に生きるヒントをもらいながら。

こたつねこ: 2010年1月13日 10:18

私は今、母子家庭です。
でも、強くはなく、実家に転がり込みました。
未だに、子供と3人の暮らしが想像できません。。
今は、母子家庭への手当が良くなりましたが、当時は世間が冷たかったでしょう;;

かず: 2010年1月13日 14:46

人は1人では生きていけない って思いす。ヨッチャンの存在が当時のお2人にとって大変心強い存在だったと思います。

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