神野三枝 タレント
~お知らせ~ 「何度も何度も読みました。そして胸が苦しくなり、涙が止まりませんでした」「私にとって人生の教科書」・・・08年3月から3年にわたり連載、多くの反響を呼んだ神野三枝さんのコラム『礼状』に、新たに書き下ろしの文章を加えた自叙伝『母への礼状』が発売されました。 お問い合わせは風媒社(052-331-0008)まで。 http://www.fubaisha.com/

第18回 『奈落(ナラク)』

20090907jinno_01.jpg  リリリリン...リリリリン......
 リリリリン...リリリリン......

 電話が鳴りました。
 父の、あまりの変わりように、今まで歯を食い縛ってきた自分の報われなさが、途方もなく空しく、絶望感に打ち拉(ひし)がれていた時でした。

 リリリリン...リリリリン......
 リリリリン...リリリリン......

 商売屋というのは悲しい性(さが)で、こんな状況下においても、大事なお客様からのお電話かもしれないと、長年身に付いた習性で、慌てて受話器を取るのです。

 母は、いつもと変わりなく明るい声で言葉を発しました。

 「毎度、ありがとうございます。大澤屋呉服店でございます」

 傍らで見つめる私には、その明るさが、返って痛々しく感じたものです。

 と、途端に、母の表情が強張り(こわばり)ました。
 お客様じゃない!誰?

 「はい...。はい...。はい...。はい...」

 はい。としか返事をしない母。まさか!お父さん...?
 私の頭には、今さっきまで、矢を刺されるような思いで会って来た父の怖い顔が蘇りました。
 まだ言い足らなくて、電話までしてきたのか!?
 それとも、娘を寄越したことを怒って電話してきたのか!?
 私はとっさに両手で顔を覆い、深く息をして、呼吸を止めていました。

 余談になりますが、この両手で顔を覆う無意識の動作というのは、心理学の世界で「自己タッチ」と呼ばれるしぐさだそうです。何かに対して不安や緊張を感じたときに出やすいのだとか。
 ではなぜ、無意識にそのようなしぐさが出るのか?
 それは、まだ赤ちゃんの頃に、記憶がさかのぼるようです。
 母親は、生まれたばかりの赤ちゃんや、小さな子供が泣いている時、安心させようと本能的にヨシヨシと頭をなでます。
 この時の母親の手に触れた安心感という記憶が、大人になっても残っているのだそうです。
 人は、不安や緊張を感じたときに、子供の頃の母親の優しい手のかわりとして、無意識に自分をなだめるため、自分の手で、自分を触るのです。

 今思えば、その時の私は、不安で一杯だったのでしょう。

 顔を覆っていると、しばらく相手の話を聞いていた母が、「わかりました」と一言告げ、深く息を吐き、受話器を置きました。

 恐る恐る私は顔を上げ、「誰から?お父さん?」と聞きました。

 母は頷く(うなずく)と、再び深く息を吐き、口を開きました。

 もう聞きたくない。イヤな話は聞きたくない。

 すると、母が言うのです。

 「あなたのお父さんは、やっぱり変わってなんかいなかった」

 「えっ?」

 父は母に、こう話したそうです。

 「娘は、いつまでも、子供だ、子供だと思っていたれけど、知らない間に、大人になっていたんだな...。

 今まで、散々苦労をさせて、本当にすまなかった。
 もう僕の事は、心配しなくていい。
 お前たちは自分たちのことだけを考えて、この先の人生を生きていってくれればいいから。

 いろいろあった家だ。高くは売れないだろう。
 でも、もう商売を畳んで、その家も売って、わずかなお金も残らないだろうけど、なんとかお前たちには新しい人生を生きて行って欲しい。

 しかし、本当に大人になったな~。
 しっかりした娘に育ててくれて、ありがとう。

 本当なら、あとの処理は、全部僕がしなくてはいけないけど、今さらまわりに会わす顔がない。
 最後の最後まで迷惑を掛けるが、どうか、情けない男の最後の頼みだと思って、引き受けてもらえないだろうか。

 明日、離婚届を持って、もう一度来て欲しい。

 本当に、すまなかった」

 母はそう父の言葉を言うと、
「やっぱりお父さんは、家族の事をちゃんと考えてくれている。
 あなたのお父さんは、昔のままの、心の優しいお父さんよ。
 お父さんが、私たちのために、大きな決断をしてくれたんだから、私たちも前を向いて、地に足を付けて、お父さんの気持ちを裏切らないように、しっかりと生きて行きましょう。私たちがきちんと生きていくことが、お父さんを安心させてあげられることだから」

 しかし、私には、どうしても心配な事が...。

 「おかあさん...。お父さんと離婚するの?
 私は、お父さんと離れて暮らしてもかまわない。
 でも、この先、一人で生きていくお父さんにとって、戸籍上だけでも家族がいるってことが心の支えになると思うの。

 お母さんには私が傍にいる。だから寂しくないでしょ。
 でも、お父さんは一人きりになってしまうの。
 お母さんにとって、いつまでもあのお父さんと繋がっているのは嫌かと思うけど、お願い。私のたった一つの願いだと思って、離婚届けを出す事はやめて欲しい...。
 もし、何年かたって、お父さんが一人でもちゃんと生きていけるようになったら、その時、離婚届を出してくれて構わないから。
 それだけはお母さん、私の我がままを聞いて...」

 母は、「わかったわ。あなたは何も心配しなくてもいいから」と、安心させてくれました。
 ここで初めて、私は暫く忘れていた、『幸せ』という気持ちを抱きました。
 この状況で幸せ、というのも可笑しな(おかしな)話ですが、これまでの心の休まる時の無かった日々に、ようやく希望の光が差してきたことは、私には、とてもとても幸せな事に感じられたのです。

 『幸せは、どこにでも転がっている。それを幸せだと見つけられる心さえあれば、人生は、最悪の事態でも、ハッピーなのであります』これは、私の持論です。

 そして、こうとも思いました。

 『奈落の底だと思っていても、実は奈落の底にも神様はいる』

 自分が諦めなければ、行き止まりの底の底には到達しないのであります!
 努力をやめた時が、奈落のどん底!

 さあ、これからは大忙しの日々の始まりです...!

【写真】この話の当時は、正直、写真を撮る余裕がなく、私のアルバムは寂しい事に、この時代の自分の写真がありません。
そこで、先日、夏休みをいただいて、友達と台湾へ行ってきた時の写真を掲載させていただきます。石が埋め固められた道の上を裸足で歩くというものです。その足の痛さと言ったら、おそらく奈落の底の地獄の痛さでしょう。しかし、死ぬほど痛いのに、嬉しそうな私。まさに、今回の内容にぴったりです。
神野三枝 プロフィール
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コメント

奇跡の復活: 2009年9月 7日 10:24

人生にはいろいろな決断がありますね。夫婦の別れの決断はありうる話ですが、親子の別れの決断はなかなかりません。我が子のためを思っての決断。断腸の思いだったのでしょうが、娘の幸せを願えばこそ。人間味を見させてもらった気がします。

赤い皇帝: 2009年9月 7日 13:25

夫婦は、離婚届でもって他人になることができます。しかし、親子の縁は”血縁”でもって、ステージが変わる(亡くなるまで)続きます。子供を思っての決断といったところですね。
若い私にとって、お父さんの行動は、腑に落ちない部分をありましたが、プライドとの葛藤だったと思います。
親の無償の愛を感じました。

バンバン爺: 2009年9月 7日 14:09

一般的には離婚となると子供は母親側につき、父親が単身という例が多いと思います。未だ若かったり生活力が有ればどうって事も無いのですが、年を取ってしまい財産も無い男はみじめな余生を送り、ホームレス生活になるケースが多い様です。男の立場からお父さんの心境を思い胸が締め付けられます。

三好のてるくん: 2009年9月 7日 19:22

面倒見てもらってる兄弟の手前、ああいう態度をとったけど・・・
という事でしょうか?
親子は親子なんですよね
読めば読む程に、心が痛いです
でも、振り返ったからといって、先が良くなるわけでもなし
前を見る事が大事ですよね

けいちゃん: 2009年9月 7日 21:18

数時間前には絶望感でいっぱいになった三枝ちゃんなのに、お父さんの行く末を心から心配できたのは、根本にあるお父さんへの愛情だったと思います。
最悪の事態でもハッピーをみつけられる三枝ちゃん。
その人格形成にはお父さんも大きな役割を果たしたのでしょうから…。

17: 2009年9月 7日 23:51

幸せやありがたみって言うのは、なくしてからしか解からん事が多い。
でもそういった物はいつもすぐ傍にある。
何時でも、どんな状況下でも。
だで、いっつも幸せを理解出来とると、人生が楽しなるわな。

大好きやったお父さん。
本心は変わとらんで良かったねぇ。

syuga1: 2009年9月 8日 13:47

正直お父さんにはガッカリでした。現実はこういうものかもしれませんね。
最後の尻拭いこそ御自分で奮起してほしい。そう思う私は冷たいのかな。
憎まれついでにいえば、そういうお父さんを作り上げたのは、お父さんの家族。その中にはお母さんも含んでいると思います。辛いコメントでしたらごめんなさい。お父さんにも自立して欲しかったんです。

バードちゃん: 2009年9月 8日 16:03

う~ん...こんな時、よよと泣き崩れる妻だったら「よしっ!俺に任せろ!」てな事になるのかしら。何もかも歯をくいしばって頑張ってるのが仇になる? これは私の永遠のテーマでもあります。やればやるほど、相手が寄りかかってくる、荷が重過ぎる、相手もそんな妻に息苦しくなる。言ってる事が何一つ間違っていないだけに、気持ちが追い込まれ自信喪失。
そんな感じでしょうか。夫ではなく母親に甘える子供になっているのですね。

いてまえ: 2009年9月 8日 18:45

あんなに憎たらしい存在だったお父さんから離婚しても良いと言われた時、神野さんは何で?と思った事でしょうね・・・。ですが、根は優しいお父さんとお母様、実に優しいご家庭の育たれた神野さんは素晴らしい女性ですね。

よよちゃん: 2009年9月10日 15:43

第1回から一気に読みました。いつも元気な神野さんの過去がこんなに波乱万丈だったとわ・・・涙なくしては読めませんでした。私の父も酒を飲むと人が変わる人だったのでとても人ごととは思えません。どうしたら神野さんのように強くたくましく生きていけるのでしょうか・・?私は40歳過ぎても涙もろい人間です。

季節はずれのサンタクロース: 2009年9月10日 23:39

そうです。私の持論も同じです。一瞬のうちに1500万円の借金持ちになって、「奈落の底」だと勘違いしている時に、ずっっと幸せを感じている事に気づきました。  その時思いました。「幸せ・不幸せは、その状況でなく、その心だ!!!」と。  そして、あるDJにも教えていただきました。「スタートラインは、何時でも何所でも引ける」と・・・     ありがとうございました。

ラブミッキー: 2009年9月18日 00:04

普段ラジオから聞こえてくる神野さんの声からは、想像も出来ない過去があることに驚きです。私自身、幾つか重なる事があり、悩んだ時期もありました。ただ、考え方一つでこんなにも前向きになれるんだと、気付かされました。前を向いて・・・
少し勇気がわいてきます。

匿名みかん: 2009年9月28日 23:19

大変な経験をありがとうございます。自分がその場にいるときはこのつらい時間あと1時間も我慢すれば、とかいろいろ考えるのですが、、、何もかも自分で決め,、、神野さんお若いのに立派ですね

エルコンドル: 2009年9月29日 18:35

 予想に反した お父さんの電話でしたね 男なら 最後ぐらいは 自分で片付けしないと 本当に弱くて 意気地なしに思えます ごめんね ! この一言で どんなに人は 癒されるか 謝る勇気持持つこと あらためて感じました 神野さん
勇気と愛情と優しさ溢れる魅力的な女性です 応援してます   ファイト!

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